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311のときの話

こんにちは
俺です

今日は自衛隊時代の311のときの話をしたいと思います
あんまり詳細に描きすぎると公安に怒られるので、ぼかして書きます

自衛隊1年目の終わりごろの時でした
そのとき俺は「明日の土日何して遊ぼうかな」などと考えていたので、金曜日だったはずです

地震がありました
大きく、長く、気持ち悪い地震でした
東北の駐屯地ではなかったのですが、それでも怖かったです

ニュースをつけると、FAKEみたいな映像がガンガン流れていて、それを見ながらリュックに寝具や着替えなどを急いで詰め込んでた記憶があります

とんでもないことが起こっちゃったなと思ってました

俺は福島に派遣されました
福一が爆発した時、訓練でしか着たことがない防護服を着させられました
あー俺はここで死ぬんだなって思ってました

最初に派遣されたのは飯舘村辺りだったと思います
貯水池が地震で決壊し5歳の女の子が流されたのを探す任務でした

早く見つけてあげたい気持ちと、もし見つけてしまったら俺は耐えられるんだろうかと正直に言うと思ってました

普段なんの仕事も出来ずバカにしてた先輩が「絶対見つけてやるぞ」と俺に言ってきたのが今でも忘れられません

どこの被災地でもそうだったと思いますが、指揮系統がめちゃくちゃになってて、次はここへ行け、次はあっちだ、といろんな所へ行かせられました

1番長く派遣されたのは南相馬でした
近づくにつれ荒れていく道路、無くなっていく家、電信柱に引っかかってる車、海岸線にたくさんあったであろう家は基礎しか残ってませんでした

本当に何も無く、地獄ってこういうところなのかなあと思ってました

まだ19歳だった俺は体力も精神も充実してましたが、それでもとても疲弊する任務でした

第1は行方不明者の捜索です
地図を拡大し、今日はこの辺りと決め人海戦術で探していく作業
瓦礫などが多いため、行方不明者の捜索のために撤去しないといけなかったので、瓦礫の撤去も付随してやってました

30キロ圏内で任務をしていたので、GPSで確認すると直線距離7キロまで近づいてました

白い防護服を着て、ゴーグルと手袋をつけて被曝を防いでした

余談ですが、意外と隙間時間があるので読んでなかった本をそのとき持ってきてたんです
それが三大奇書のひとつ「ドグラ・マグラ」です
精神に異常をきたしてみろ!という気持ちで読んでいたのですが、毎日同じ作業、同じ生活、テレビからは同じCMが聞こえてきながら読んでいたので、本当に頭がおかしくなりそうでした
ぽぽぽぽーんがスカラカチャカポコと被るんですよ


俺は2、3体ほどしかご遺体を見つけてあげることが出来ませんでした
最初の一体目の方は原型が留めていなかったので、よく分からなかったのですが、二体目の方はクルマに乗ったまま溺死された方だったので、とても綺麗な状態でした

同期と一緒に見つけたのですが、ご遺族の方が来た時が1番辛かったです
まだお若い方だったので、お嫁さんが号泣されていたのを眺めることしか出来ませんでした

その夜、同期と話していると元気がないことに気づきました
あんなことがあったし、仕方ないと思いましたが
「どうしたの?」と尋ねると「さっき嫁から電話があって子供が出来たと言われた」と言っていました

複雑な気持ちだったと思いますが、とりあえず上司の元に連れていき報告させました

2ヶ月ほど派遣されましたが、被曝手当など諸々含めてかなりのお金を頂きましたが、その辺にはどこか壊れてしまっていたみたいで、すぐ使い切ってしまいました

311の経験は自分の中ではとても大きく、良くも悪くも人間性を変えた出来事でした

また近くの小学校の生徒が「自衛隊さん、ありがとう」という横断幕を作ってくれて泣いたのも忘れません


デリケートな出来事なのでお気を悪くされた方、被災者の方がいらっしゃいましたら、申し訳ございません。
身勝手な人間で申し訳ございません。
私は自衛隊から離れてしまいましたが、復興を心より願っております。